ベリコンを振り返ってみる

単独200回記念到達1回目から自分が参加したベリコン軽く振り返って見ます。


まるごと初単独

1回目2005年6月4日Zeep名古屋
今は無き500系のぞみで名古屋に向かう、時折雨雷が鳴る中記念の1回目単独コンサート、自分はファミ席でこの記念のコンサートをじっくり見ていた。

2回目2005年6月5日Zeep大阪
不参加、月曜日が仕事朝からのため回避。

3回目2005年6月19日Zeep東京昼
スタンディング500番位で入場2つ目の段差の最前をキープしてが、スペースは余りとれず動くのは辞めてサイ振ったりして見てた。

4回目2005年6月19日Zeep東京夜
ファミ席でまったり、スタンディングはA2000越えてB200位まで出てた1回は2200人、上から見たら1回目よりフォーメションや位置取りが向上されていて1回目より綺麗に見えた、終了後ベリメン8人の名前のコールが自然発生したこれはかなり感動的だった、平均年齢12.1才のユニットが頑張る姿はとても感動的でいい物を見せてもらったと大満足した。

スイッチON

5回目2005年9月11日市原昼
Wとの合同コンハイスコアー終了後早くも2回目の単独ツアー、ハイスコアーから2週間から経過したなかったが今思えば。
石村舞波卒業発表、このツアーは舞波の卒業の為のツアーだった、自分の経験ではベリコン史上もっとも盛り上がらなかったコンサート。

6回目2005年9月11日市原夜
昼はお通夜状態だったが夜は舞波を元気良く送り出そうと盛り上がった、アンコール前に佐紀ちゃんが飛ばしすぎで限界を超えてしまいアンコール欠席すると桃子さんからアナウンスがあったが、佐紀ちゃんが泣きながらやっぱり出ると言い出す、その後桃子さんがBerryz工房は8人だから8人で頑張りますと、佐紀ちゃんはキャプテンとして8人のベリを見せる機械が少なくなっているので無理をしてもやっぱり参加したかったのだろうと、この一連の会話は涙なくしては見てられなかった。

7回目2005年9月17日大阪
回避しました、この頃は大阪は遠い土地だったのかでもリリイベの千里チェルシーには何回か行ったんだよな。

8回目2005年9月19日愛知
名古屋なら参加する、今は無き愛知厚生当時はA列を使いステージ劇近、それを利用して最前のヲタがステージに花束を投げ込む、花束は佐紀ちゃんが拾い舞波に手渡されたが翌東京厚生からステージに物を投げ入れないと言うアナウンスが放送それるようになる。

9回目2005年10月2日東京昼
回避、チケ無しオクで調達も考えたけど昼も高かった、幸い夜の卒コンは持っていたので夜だけに集中する事に。

10回目2005年10月2日東京夜
いよいよ舞波の卒コン1階の最後列だったが、自枠キープで文句は言えない、東京厚生の最後列は後ろが通路でなく壁なので椅子の上に立ったり出来た、2回ほど注意はされたが回りも椅子の上に立って見てたりした。
アンコールのベリフィーからメンバーが泣き出すが、舞波は終始笑顔でのお別れだった、一番メンバーで泣いたのはりーちゃんだった、自分も思い切り泣いて泣くだけ泣いてこの日の内に舞波への想いに区切りを付けて翌日からは気持を改めた、当時舞波は桃子さんの次の2推しだった。

こんな感じで振り返ってみましたが、桜満開までは記憶もあるけど公演数が増えた宮殿の頃から記憶ははっきりしないかも。

201回公演のうち単独コンで舞波が居たのはその内の10回だけだったのか、でもWとの合同コンやイベントで舞波との思い出は沢山有ります。